特集コーナー Vol.7
京都の歴史 IF もしも 〜あの時、徳川慶喜が「大政奉還」を行わなかったら〜
今回は、日本史上の大きな出来事、「大政奉還」に縁の深い京都御所と二条城を特集します。

京都御所

二条城(本丸御殿)
大政奉還
大政奉還とは1867年11月9日(慶応三年10月14日)、徳川十五代将軍慶喜が征夷大将軍の職を辞し、政権を朝廷に返上することを申し出、翌日朝廷がそれを許可したこと。
幕末の動乱期、
A 幕府政治の前面否定、倒幕、朝廷を中心とする雄藩連合政権樹立
B 幕府勢力の温存、ただし雄藩も政権に参加
C 幕政の部分的修正
という三つの政治体制案が話し合われる中、慶喜はBを選んだ。
幕末の動乱期、
A 幕府政治の前面否定、倒幕、朝廷を中心とする雄藩連合政権樹立
B 幕府勢力の温存、ただし雄藩も政権に参加
C 幕政の部分的修正
という三つの政治体制案が話し合われる中、慶喜はBを選んだ。

二条城内のツツジが咲いている道を慶喜も歩いたのでしょうか。
表向きは朝廷に政権を返上しておき、実際の政治は幕府勢力が握るという政治体制を構想していたのである。実際に、政権を手に入れたところで、朝廷には政治を行うほどの力も人材もなかった。
「大政奉還」自体は公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白によるが、統幕の密勅を得て、以後王政復古のクーデターによって慶喜の辞官納地を決し、鳥羽・伏見の戦いを経て戊辰戦争へと発展させた。
もしも、慶喜が大政奉還が行わなかったら。
この問いに関しては、さまざまな説が囁かれています。
この問いに関しては、さまざまな説が囁かれています。
- 現在の日本の首都は東京ではなく京都になっていた。
実際に、天皇が「遷都の詔勅」を出していないため現在でも京都が日本の中心地と考える市民も多いという。 (平城京遷都、平安京遷都の際には時の天皇が 「遷都の詔勅」を出した)明治の初めに、天皇と皇后が京都から東京へと移り実質上の東京遷都は行われた。
しかし、長い間「平安の都」としてそこに住んでいた京都市民や公卿達の反対は並大抵のものではなかった。
そこで、遷都と公式に表明することは避けて、政府は東京奠都(都を定める)という形をとった。 - 今のように伝統的な産業や歴史が息づく京都の町並みは、廃れていた。明治二年(1869年)三月の東京遷都までいったん京都に中央政府が置かれた。
東京遷都にともなう京都の衰微を恐れた京都府はその代償として中央政府から莫大な財源を引き出し、これを賃金として京都産業界の復興に活用したという説もある。
このような行政のあり方は京都独特のものである。 - 戊辰戦争のような局地的な戦争ではない、日本全国を巻き込む大規模な戦争が起こり、日本は戦国時代に逆戻りしていた。
恋愛においても、仕事においても、「決断力」の大切さが説かれる現代。
幕末の動乱期、慶喜が下した「大政奉還」は中でもとりわけ大きな決断だったと思われます。
もしも、慶喜があの時決断をしなかったら。
あなたは、どう考えますか?
参考文献
『錦絵 幕末明治の歴史⑤明治の新政』 小西四郎 講談社出版
『幕末・維新の日本』 近代日本研究会
『京都の歴史7 維新の激動』 學藝書林
あなたは、どう考えますか?
参考文献
『錦絵 幕末明治の歴史⑤明治の新政』 小西四郎 講談社出版
『幕末・維新の日本』 近代日本研究会
『京都の歴史7 維新の激動』 學藝書林
